ゆりゆりゆり

 昼飯がてら、可睡斎ゆりの園に行ってきた。

 金曜日に降った雨で昨日今日と晴れが続いたがそんなにも暑くなくもなく、花を見るにはちょうど良い天気で、昼飯を一緒に食べていた友達を誘ったのだ。車を転がしながら、「ゆりゆりゆり、ゆりゆりゆり、ゆりはいいね、いいよね」と百合星人ナオコサンの主題歌を口ずさみながら、遠州三山自分巡礼中のおじいさんおばあさんの連なりを傍らに過ぎていく。

 その場しのぎの簡易駐車場で500円も取られ、ちょっと歩いて入園した。入園料1000円。予想以上に入場者の数は多く、多くは家族連れ、カップル。しかしながら男性同士で来ている客は絶無に等しく、傍目からみてなかなか怪しい組み合わせだったことが想像され、「ホモが、百合をみにきている」と入園者の誰かに心の中で思われていた可能性がある。

 入園した南門を潜ると、いきなり目の前に広がる辺り一面の黄色。見渡す限り黄色の百合が広がり、圧巻であった。百合の園といっても、もっとしょぼいものを想像していたので、これには面食らった。圧倒的物量の百合が手当たり次第に敷き詰められている光景はそれだけでも壮観だが、これだけの百合だと香りも凄い。百合の香りを初夏のそよ風が運んできて、比喩ではなく風が薫っている。思わずうっとりしてしまった。

 順路に従って、歩いていく。斜面いっぱいに立ち並ぶ色とりどりの百合。百合と言えば白。その他に、黄色、橙、薄紫、ワインのように濃厚な赤のものもあった。我々は、「オレンジは清楚系ビッチだな」などと無責任なカテゴライズを行い、これを大いに楽しんだ。

 そういえば園内にはほとんど虫がいない。そういう管理をしているのだろう。蜂や蝶などからしてみればこの一帯は酒池肉林の桃源郷のごとくに思われるのであろうが、不思議なものだ。一方、園内に池があったので、こちらの方にはトンボが飛び回っていた。大きなトンボだ。よく見ると二匹のトンボが重なっている。「お、トンボがセックスしてるぜ」と囃し立ててみたり。

 美しい花を見て、ムラムラしちゃったのだろうか。

 映画のシーンなどでも花畑の中で男女のまぐわいを奏でているものは多い。絵になるからだろうが、それ以前に花の香りというものはそれだけで性的に興奮をさそうものなのだろう。スターウォーズエピソードⅡも確か、アナキン・スカイウォーカーとアミダラ女王とが隠遁生活を送っていた星で男女の仲になっていく過程の中で花畑でいちゃついていたシーンがあった。下世話な話だが、あれは結局最後までしたのだろうか。

 花畑でAVを撮っているものがあったら、観てみたいものだ。

 AVで思い出したが、園内でこんなことを考えた。

 花を観賞するということと、AVを観ることはとどのつまりは同じであるということ。

 おしべとめしべが生殖するための場こそが花であり、思い思いに美しい色をつけている花弁は要するに本気セックスを行うためのベッドだ。そして彼らが風に揺られながら宜しくやっているところを我々は「綺麗だね」などといいながら出歯亀しているということだ。つまり人様のセックスを観て感興を催したりしているのだから、これはアダルトビデオを見ているのとそう変わらないんじゃないか。催すものは異なるにしろ。

 ということを同行した友達に話してみたら、「ごめん、ちょっと分からない」とのこと。偉い人には分からないけど、エロい人にはすぐに分かります。


百合星人ナオコサン - YouTube

世田谷線

大学の同期と世田谷線沿線めぐりをした。そんな路線があることを初めて知った。

待ち合わせ場所は東急田園都市線の停車駅の一つである「三軒茶屋駅」。田園都市線を利用すること自体は大学時代にちょくちょくあったのだが、基本的には渋谷への直行であり、途中下車はなかった。この三軒茶屋に関しても降りたことはなく、どんな街なのかは、既婚女性に声をかけてアンケートや健康器具のモニターの協力を得る内容の動画を通じて知るのみであった。この資料によると、この街には色狂いセレブ妻が多いらしい。私は緊張した。

三軒茶屋は小粋に古風な感じを漂わせているような街だった。何しろ駅ビルの外装がレンガ造りで生意気だ。これがあの「キャロットタワー」である。言わずもがな、三軒茶屋ではレンガのことをキャロットと言う。それはさておき。

集合時間が12時で、全員集まった段階で早速昼食に足を運んだ。向き先はここ。盛岡名物のじゃじゃ麺を食した。初の体験だ。引率してくれた友人は盛岡の出身でそんな彼曰く「岩手には3つの麺がある」。1つ目が「わんこそば」、2つ目が「冷麺」、3つ目がこの「じゃじゃ麺」だそうだ。前2者は知っていたがじゃじゃ麺はその日まで存在を知らなかった。なのでなんとなくパッとしない。合コンの人数合わせに呼ばれた冴えない男Aという感じ。まあ胃袋が満たせれば、という程度の期待度の低さで暖簾を潜って席に座り、中盛りを注文。すぐさま差し出される器。受け取り、カウンターに置く。

http://tabelog.com/imgview/original?id=r938404644

 

 

 

山崎克雄『海外経営の鉄則』

2007年の本なのでだいぶ古い。

会社紹介を聞いているだけのような内容で、肝心な総括部がつるっと撫でただけの分析で終了し、自分が大学の時に出していたレポートのようだった。

 

海外経営の鉄則 (講談社現代新書)

海外経営の鉄則 (講談社現代新書)

 

 

Facebookについて

小中高の友達とも今や殆ど会う事もないので、当時の思い出は全て返しそびれてしまった他人からの借り物であるかのような気がしている。それなりに仲良くしていた友達とも交流があったのは別れてから1年、2年。積極的に会いたいとも思わないのは生来の面倒くさがり気質に加えて、当時の自分を今現在あまり信用していないこともあるのだろう。特段、過去に後ろ暗いものがあるわけではなく、それなりに充実していたし、確かに青春はあったように思える。が、それでも昔の友達に会おうと思ったことは無かった。

本来であれば他人の消息を確かめることは、本人に会うか、それを知る第三者づてに聞くかに限られているはずだが、SNSという恐るべきツールの浸透により意図せずとも十何年も会っていない人間の現在の様子が見えてしまう。Facebookなんかを始めたときは驚きの連続だった。ひとつ例をあげると、まず大学などの比較的近い友達からスタートしたはずだが、いつのまにか高校、中学、小学校の時の友達や友達でもなかった人から友達申請が来る。ところが不思議な事に、友達申請が来て、とりあえず承認をした所で「久しぶり-」等という会話が始まるのは殆ど稀で、無言で「友達」になった後は更新されていくタイムラインを時折目にするだけの関係が開始される。自分の知っていた人が、どこかの知らない人と飲み会をしている。たまに、それに知っている人が混じっている。ああ、この人たちはまだ関係が続いているのか。そんなことが勝手に分かる。分かったところでどうという話でもない。ただそれだけだ。

分からないのはなぜこの人はおれなんかを「友達」に加えたのだろうか。特に会話をするわけでもなく。ただ単に自分の近況を知ってほしいのだろうか。コメントも期待できないのに。何なんだ。人数稼ぎか?友達の数を増やして自分の交友関係の広さをアピールしたいのか?などという性格の悪い推測まで首をもたげ出す。

Facebookの何より重要な機能の一つに、出身校などのデータや友達の繋がり等から、「この人はご存じですか」と次から次へと誰かしらのプロフィールを引っ張ってくる点があり、その中には確かに記憶にある人もちらほら含まれる。あ、この人。知った人であることを認識する。とはいえ、別に感動は無い。画面にいるのはその程度の人なのだ。でも、目の前には「友達になる」のリンクがある。特に間をおかず、なんとなく、「友達になる」に触れる。

一度繋がりの切れた人と関係を再開させるには本来強い意志が必要である。加えて、意志にともなう行動が必要である。ところがFacebookはこの意志が極限まで薄まった状態であっても、関係させてしまう。「なんとなく」で繋げてしまう。始めさせてしまう。必要な行動は、指先を画面に置くだけのことだ。ここがFacebookの最も凄いところであり、恐ろしいところであると思う。

個人的にはこの「なんとなく」が気持ち悪いので、滅多なことでは自分から友達申請をしないのだが、大方の人はこの「なんとなく」を空気のように受け入れているようだ。

次のステージの話をする。

なんとなく繋がった「君」と「私」。そこから発展させることに関しては、まだFacebookは弱いと言わなければならない。というのも、「君」と「私」の間で現実的になされていることと言えば、「君」が一方的にアップしている写真やつぶやきを私が時折目にする程度。それに対してコメントを入れようという考えは起こらない。コメントというのはハードルが高いものだ。「君」に対して「私」がいきなりコメントするのは変だ。それを乗り越える意志を必要とする。難しい。その為、たとえ最小限の意志でもコミュニケーションできるように、Facebookも考えた。そこで「いいね」である。

この「いいね」については賛否両論があるらしく、なんでもかんでも無批判に「いいね」を押すのはどうなんだ「悪いね」もあって然るべきだ、みたいな意見があるとのことだが、これは本質を見ていないと言える。なぜなら、「いいね」とは「見てるよ」の言い換えだからだ。共感の言葉を表しつつも、相手への認識、承認を示す機能を持っており、こちらがメインだ。

これもまた、指を画面の上に置くだけで表明することができる。特別に言葉を用意する必要は無い。「なんとなく」で移せるほど容易な行動である。コミュニケーションの第一歩は相手を認めることから始まる。あなたの存在を私は認識しています。会話、しぐさ、接触。全てのコミュニケーションにはこの言葉が包まれている。そして「いいね」は普段隠されているはずのそのメッセージを剥き出しにし、相手に送信する。最も根源的な行為を最も単純化した行動に還元する。これもSNSの発明だった。

無論、単純が故に陳腐化も免れないが。

いずれにせよ、「君」と「私」のスタート地点をとりあえず作り、そしてとりあえず一歩進ませる。この「とりあえず」こそがFacebookと理解している。

この「とりあえず」に無意識に委ねられることが、SNSに順応できているということになるのだろう。

 

認知・判断・操作

認知・判断・操作。

これは自動車学校の学科の授業で習ったフレーズ。危険を認知したら、どうするか判断し、それを実行しようねというお題目。これは毎日の仕事にそのまま当てはまっていた。

とにかくメールが降ってくる、電話が鳴ってくる。何、トラブル?矢継ぎ早に新しい事態が起こり出す。既に起こっている事象、起こりうる事象を認知したら、どう判断すべきか、あるいは判断を先延ばしにすべきか、判断しなければならない。

判断を誤れば、当然痛い目にあう。判断しなければ、それは仕事ですらない。

正しい判断はその事案が収束してからしか分からない。それまでは絶えず不安である。孤独である。

その中で即断即決を基本としている。必要とあらば回りに相談する。しかし最後は自分で判断を下す。即断即決でないとどんどん状況は悪くなる。後で考えると碌なことにならない場合が多い。

判断の基本は論理だ。ただ論理には限界があることを実感する。対応しなければならない現実はグチャグチャで論理の紐で通すことができないことが多い。論理は限定され得た手段でしかなかった。

論理が封じられた後、残された手段は直観だ。

直観は限定された情報の中で本質に到達する飛躍の力だ。しかし論理と違って、その正当性を担保してくれるものが無い。直観はひときわ孤独だ。直観に基づく判断はこれとの戦いを意味する。つまり覚悟が必要である。

加えて、直観そのものの精度を上げるために何が必要か?常識である。

常識とは何か。おかしな物を見抜き、分別するための認識である。常識は論理ではなく、論理以前である。メタレベルの知識である。常識力がある人というのは、メタレベルの規範感覚を持つものを指す。一つの能力である。暗記してどうこうなるものではない。

この常識によって直観の精度が導き出される。

 

論理力は生きるために必須で、論理的な対応が取れないのは重大な欠陥である。

教育もまずは論理の習得を第一とするのは当然だ。ただその先の直観になると心許ない。直観は軽視されているような気がしてならない。

論理が通用するのは整備された状況でのみである。それ以外の状況を対処するためには、論理を超えなければならない。