はっ

何かにつけ、「はっ」とすることが多い。

それが機転が利く系の素敵な「はっ」だったら良かったのだが、勘違いや、うっかりしていたことに気が付くことによる「はっ」である。小生はおっちょこちょいなのである。

例えば、TSUTAYAにDVDを返しに行くがてら昼飯を食べようと車を出し、店に到着しようという所で、「はっ、DVD忘れた」というような忘れ物系。聞き間違いや見間違いによる「はっ、なんだ勘違いだったか」というような勘違い系。双方ともによくある。

特にやっかいなのは後者の勘違い系。例え見間違いなどしても、すぐにおかしいなと思い、再確認して勘違いであったことに気が付くことができればまだ良いのだが、小生の場合は勘違いしたまま突っ走ることがしばしばある。

 

 

今日なんか台風が来るというので部屋に引きこもって大人しく小説を読んでいたのだが、作中、主人公が女の子に対して、「そのまなこに焼き付けておけ」みたいなことを言うシーンがあった。まなこは眼のことで、「ちゃんと見ておけ」というなんてことのないセリフである。それを小生はまなこではなく、なまこだと勘違いし、さらにそこから勝手に情景が浮かんできて、それは主人公がおもむろにズボンを下ろして下半身を女の子の前に露出させ己のなまこを見せつけるというイメージで、明らかにおかしい展開なのだがその時は特にそうは感じず、そのまま次の文章に目を移ししばらく読み進めてようやく、「はっ」である。遅いあまりにも遅い。

しかも改めてその時の自分が思い浮かべたイメージを分析すると、主人公が自身の「なまこ」を女の子に「見せつけている」ということなので、一応本来の意味であるところの「眼に焼き付ける」方もカバーできている。まなこを完全になまこと捉え違えているならば、浮かぶ情景は、主人公がおもむろにズボンを下ろし、自身のなまこを七輪なんかの上で焼き出すという内容でなければならない。だがそうではない。ここで小生がやらかしたことを厳密に言うならば、まなこ=なまこを和歌で言う所の掛詞的に認識し、「まなこに焼き付ける」という行為の目的語に「なまこ」を置いてしまった、ということになる。ややこしい実にややこしい。

そしてこの勘違いに気づいた時、小生のうちに湧き上がってくるのは苦笑いというよりむしろ己に対する軽い殺意であった。

だいたい小生の勘違いというのはいつもこのような入り組んだ構造を持つ。シンプルな勘違いなら分かりやすくて可愛げがあって良いものだが、小生の勘違いの場合、上記のように徒にややこしいので、その内容を人に説明するのも難しく、一生懸命釈明を行った所で、「そっかそっか」と納得してもらえる可能性が極めて低い。返ってくる言葉はたいていの場合、「は?どういうこと?」である。こっちが聞きたいわい。

 

思うに、勘違いとは、絡まった糸のようなものだ。

人生を裁縫で例えるならば、自分をめぐる人間関係や社会環境等の諸相が、こちらの都合はお構いなしにぽいぽい与えてくる布をせっせせっせと縫いつないで、小生たちは今日を越し明日を越していく。当然忙しさには緩急があり、その時々のコンディションが仕事を左右することもあるだろうが、絡まった糸を瞬時に目ざとく見つけ出すことが出来る人は幸いである。

生あるうちはひたすら手を動かしてりゃいいが、やがて死後、ようやく自分が仕立てた一着の作品を拝見することになろう。中には精巧な仕上がりを見せる御仁もあるだろうが、小生の場合は、相互の糸が複雑に絡まってどうしようもなくなっているのを目の当たりにするにちがいない。さすがにその時ばかりは、既に死んでる自分に殺意を抱いた所で仕方がないので、これはもう抱腹絶倒、笑い飛ばして済ましたいところだ。