現代中国学―「阿Q」は死んだか

 

現代中国学―「阿Q」は死んだか (中公新書)

現代中国学―「阿Q」は死んだか (中公新書)

 

 

 

世界の10人に1人は中国人なのに、会社に入るまでは中国人と話をしたことがなかった。高校などで交換留学に来ているのは大体欧米人だったし、大学に入っても英会話の先生はアメリカ人かカナダ人だった。

接点と言えば、国内の観光地を歩いた際に、慌ただしく母国語をまくし立てていく中国人集団が通り過ぎるのを傍らに見るぐらいだった。よその国と言うのにあそこまで堂々と振る舞えるなんてすごい精神力の持ち主である。別の言い方だと、傍若無人。いずれにせよ何されるか分からない、そんな近寄りがたいイメージだった。そもそも当時の自分には外国人は全員近寄りがたかったが。

その他には三国志など小説やゲームでのイメージ、それに領土問題などに絡めて一部の人たちが叫んでる非難の声、そういったものがこんがらがってよく分からない中国像が出来上がっていた。

今はというと、毎日中国人と顔を合わせている。同期には二人中国人がいたし、仕事場の斜め前と後ろの席にはそれぞれ中国人が座っている。色々話もした。始めは怖かったが、話してみると割と良い人たちだった。

と、色々な所のイメージがまぎれて、よく分からなくなった中国(人)の印象。

その中でこの本をブックオフで買って読んだ。108円也。

発売日1997年。もはや20年近く前(愕然)。その為、ここで描かれている「現代中国」はまだGDP世界2位の中国ではない。その辺の発展途上国としての中国だ。

なので現代でもなんでもないのだが、そもそもこの本自体別に現代の中国を論じようという気はないらしく、「中国人」を理解するためのポイントを要点的に述べたような本だった。

構成はというと、

(1)名実 を読みこむ

(2)儒教を読みこむ

(3)資料を読みこむ

(4)人間を読みこむ

 の4部構成となる。

とかく物事において「名」を取る日本人に対して「実」を取る中国人。まず初めに両者の相違点を端的にまとめた後に、「儒教」という中国人の根にあたる部分を押さえ、文書や統計から共産党支配、文革など比較的最近の事象の実態を推測し、最後はいわゆる「代表的中国人」を紹介し、締めている。構成としては特に問題は無い。ただ、筆のノリに偏りがあった。特に(2)の儒教のくだりについては、筆者の専門だけあって、他よりも読ませるものがある。

 

儒教と言えばどちらかというと孔子以後の政治学としてのそれにフォーカスしがちだが、筆者はそもそもの宗教としての儒教に注目し、そこから議論を展開しているのが新鮮だった。

 

儒教はこう考えている。人間を精神と肉体との二つに分ける。そして、精神を主宰する者を魂(こん)、肉体を主宰する者を魄(はく)とする。この魂と魄とが共存するときが生であり、死とはこの両者が分離することであるとする。分離後、魂は天上に、魄は地下へ行く

死から生に戻すために、分離し魂魄を呼び戻す為の儀式が行われる。これは魂降ろしいわゆるシャニアニズムであり、これによって魂・魄が使者を象徴化した依り代(形代)に憑りついてこの世に現れ、あらぬことをしゃべり、こうして遺族と再開し、終われば再び分離してそれぞれ天上・地下に帰っていく。

魂は雲となって天空にあるので、誰も触れることができない。だからそのままにしておいても大丈夫であるが、魄は地上にあるので、他社が触れることができる。時には犬などが骨をくわえていってしまう可能性がある。そこできちんと管理する必要がある。こうして生まれたのが、魄を管理する場所すなわち墓である』

 

一方で仏教の死生観は輪廻転生で、死んでも別の形で生まれ変わるわけだから本来的に墓は不要。でも今日のお寺に墓があるのは、仏教普及にともない、仏教側が妥協する形で儒教の要素を取り込んだためだと言う。

この儒教というものが、今日の中国をはじめ我々日本人の死生観の一部を形成したということになる。お盆なんて習慣はまるまるその名残のようなものだ。私のお墓の前で泣かないでくださいというのも、その派生のような気がしてくる。

 

そして以上のような儒教の宗教性がやがて道徳や規範レベルまで降りてきて、中国の伝統的な価値観、家族観に影響を及ぼすに至るというわけだ。

 

この部分が本書の中でも特に美味しい、肝だった。

その他に面白かったことは、靖国神社参拝についての筆者の私見だった。

筆者曰く、そもそも靖国神社をめぐっては中国人と日本人の死生観のある部分の違いが、靖国参拝についての両者の認識にズレをもたらしているとのこと。

日本人の死生観には上記の儒教性に加えて、日本オリジナルの観念、「穢れ」の意識が要素としてある。そして日本人にとって、「穢れ」は、死で、「祓われる」。

つまり靖国に祭られている戦犯たちの「穢れ」は既にその死を以て祓われ、かつてそれに向けられていた感情も「水に流れされ」白紙となる。クローズされる。その一方で、中国人はその観念が無く、それこそ死んでも悪い奴は悪く、相変わらず憎悪の対象でありつづける。その為、文革などの政治的転換の際には、新興勢力が既に死してる政敵の墓を暴いたりする。筆者の言葉を借りれば、「死者に鞭打」って良しとされる。

この死生観の微妙な違いが、毎回の報道の度に「墓参りぐらいでいちいちうるさいんだよ中国人は・・・」という感想を我々の側に与えているそうだ。