未練物語『華麗なるギャツビー』
それから6、7年ぐらいたっての映画版。
原作を読んだときは筋は特に気にせず、流れるような文章にうっとりしていた覚えがあるが、映像媒体で改めて見直してみると、ちっぽけで哀れな話である。
元カノを忘れられない成金男が、寄りを戻そうとあくせくと頑張って、いい感じな所まで行くんだけど、結果ボロが出てダメでしたという、つまるところこういう話。恋愛小説なんかではない。これは未練小説だ。であり、ストーカー小説でもある。
筋自体はいたってシンプルなこの物語のポイントはやはりギャツビーの人物造形にある。謎の多い人物などとよく言われるけど、基本的にギャツビーという人間のポイントは、
①裸一貫の状態から、己の才覚と努力で成功するというアメリカ的理想(self-made-man)
②不運な別れ方をしてしまった恋人への妄執
以上の2点のみであり、アメリカという国の普遍的な理想とひどく個人的な拘りがその一つの身体のうちに混淆している点が彼の面白さだ。
彼のあらゆる行動が元カノ奪還を達成するがための計画の一部であることが話を進めるにつれ分かっていく。元カノの家の対岸に屋敷を構えたのも、パーティを繰り広げるのも、元カノのいとこであるニック(語り手)に近づいたのも、全部。
そんな動機はバレバレなのに、それでもギャツビーによくしてやるニックはアメリカ文学きってのお人好しである。
そんなニックという人物も当初は①のアメリカ的理想を夢みてニューヨークにやって来る。しかし彼がそこで見たのは多くの成功者たちの虚栄的な生活であり、翻っては①の虚しさのみだった。
その中で、豪奢なパーティを連日繰り返し、①における最大の成功者かに見えた男が実は極めて個人的な感情に囚われていた面②を知り、そんな哀れな男にむしろ同情を覚え、心惹かれる。
しかしギャツビーがその念願を果たすことの出来ないままこの世から退出した後、ニックは田舎へ帰る。
The Grate Gatzby というタイトルに反して、ギャツビーその人はちっぽけで哀れな男だった。そして恐らく、その点を肯定するためにこそ、Grateという言葉が選ばれているのだろうと思った。
ディカプリオ主演のこの映画では、小説では掴み所のない印象の強いギャツビーを、よりはっきりと、人間らしく演じており、その分ギャツビーの哀れさを浮かび上がらせている。分かりやすくて良い演技だったと思える。
そろそろいい加減アカデミー賞あげてやれよと、つくづく思うのだった。