Facebookについて

小中高の友達とも今や殆ど会う事もないので、当時の思い出は全て返しそびれてしまった他人からの借り物であるかのような気がしている。それなりに仲良くしていた友達とも交流があったのは別れてから1年、2年。積極的に会いたいとも思わないのは生来の面倒くさがり気質に加えて、当時の自分を今現在あまり信用していないこともあるのだろう。特段、過去に後ろ暗いものがあるわけではなく、それなりに充実していたし、確かに青春はあったように思える。が、それでも昔の友達に会おうと思ったことは無かった。

本来であれば他人の消息を確かめることは、本人に会うか、それを知る第三者づてに聞くかに限られているはずだが、SNSという恐るべきツールの浸透により意図せずとも十何年も会っていない人間の現在の様子が見えてしまう。Facebookなんかを始めたときは驚きの連続だった。ひとつ例をあげると、まず大学などの比較的近い友達からスタートしたはずだが、いつのまにか高校、中学、小学校の時の友達や友達でもなかった人から友達申請が来る。ところが不思議な事に、友達申請が来て、とりあえず承認をした所で「久しぶり-」等という会話が始まるのは殆ど稀で、無言で「友達」になった後は更新されていくタイムラインを時折目にするだけの関係が開始される。自分の知っていた人が、どこかの知らない人と飲み会をしている。たまに、それに知っている人が混じっている。ああ、この人たちはまだ関係が続いているのか。そんなことが勝手に分かる。分かったところでどうという話でもない。ただそれだけだ。

分からないのはなぜこの人はおれなんかを「友達」に加えたのだろうか。特に会話をするわけでもなく。ただ単に自分の近況を知ってほしいのだろうか。コメントも期待できないのに。何なんだ。人数稼ぎか?友達の数を増やして自分の交友関係の広さをアピールしたいのか?などという性格の悪い推測まで首をもたげ出す。

Facebookの何より重要な機能の一つに、出身校などのデータや友達の繋がり等から、「この人はご存じですか」と次から次へと誰かしらのプロフィールを引っ張ってくる点があり、その中には確かに記憶にある人もちらほら含まれる。あ、この人。知った人であることを認識する。とはいえ、別に感動は無い。画面にいるのはその程度の人なのだ。でも、目の前には「友達になる」のリンクがある。特に間をおかず、なんとなく、「友達になる」に触れる。

一度繋がりの切れた人と関係を再開させるには本来強い意志が必要である。加えて、意志にともなう行動が必要である。ところがFacebookはこの意志が極限まで薄まった状態であっても、関係させてしまう。「なんとなく」で繋げてしまう。始めさせてしまう。必要な行動は、指先を画面に置くだけのことだ。ここがFacebookの最も凄いところであり、恐ろしいところであると思う。

個人的にはこの「なんとなく」が気持ち悪いので、滅多なことでは自分から友達申請をしないのだが、大方の人はこの「なんとなく」を空気のように受け入れているようだ。

次のステージの話をする。

なんとなく繋がった「君」と「私」。そこから発展させることに関しては、まだFacebookは弱いと言わなければならない。というのも、「君」と「私」の間で現実的になされていることと言えば、「君」が一方的にアップしている写真やつぶやきを私が時折目にする程度。それに対してコメントを入れようという考えは起こらない。コメントというのはハードルが高いものだ。「君」に対して「私」がいきなりコメントするのは変だ。それを乗り越える意志を必要とする。難しい。その為、たとえ最小限の意志でもコミュニケーションできるように、Facebookも考えた。そこで「いいね」である。

この「いいね」については賛否両論があるらしく、なんでもかんでも無批判に「いいね」を押すのはどうなんだ「悪いね」もあって然るべきだ、みたいな意見があるとのことだが、これは本質を見ていないと言える。なぜなら、「いいね」とは「見てるよ」の言い換えだからだ。共感の言葉を表しつつも、相手への認識、承認を示す機能を持っており、こちらがメインだ。

これもまた、指を画面の上に置くだけで表明することができる。特別に言葉を用意する必要は無い。「なんとなく」で移せるほど容易な行動である。コミュニケーションの第一歩は相手を認めることから始まる。あなたの存在を私は認識しています。会話、しぐさ、接触。全てのコミュニケーションにはこの言葉が包まれている。そして「いいね」は普段隠されているはずのそのメッセージを剥き出しにし、相手に送信する。最も根源的な行為を最も単純化した行動に還元する。これもSNSの発明だった。

無論、単純が故に陳腐化も免れないが。

いずれにせよ、「君」と「私」のスタート地点をとりあえず作り、そしてとりあえず一歩進ませる。この「とりあえず」こそがFacebookと理解している。

この「とりあえず」に無意識に委ねられることが、SNSに順応できているということになるのだろう。