認知・判断・操作

認知・判断・操作。

これは自動車学校の学科の授業で習ったフレーズ。危険を認知したら、どうするか判断し、それを実行しようねというお題目。これは毎日の仕事にそのまま当てはまっていた。

とにかくメールが降ってくる、電話が鳴ってくる。何、トラブル?矢継ぎ早に新しい事態が起こり出す。既に起こっている事象、起こりうる事象を認知したら、どう判断すべきか、あるいは判断を先延ばしにすべきか、判断しなければならない。

判断を誤れば、当然痛い目にあう。判断しなければ、それは仕事ですらない。

正しい判断はその事案が収束してからしか分からない。それまでは絶えず不安である。孤独である。

その中で即断即決を基本としている。必要とあらば回りに相談する。しかし最後は自分で判断を下す。即断即決でないとどんどん状況は悪くなる。後で考えると碌なことにならない場合が多い。

判断の基本は論理だ。ただ論理には限界があることを実感する。対応しなければならない現実はグチャグチャで論理の紐で通すことができないことが多い。論理は限定され得た手段でしかなかった。

論理が封じられた後、残された手段は直観だ。

直観は限定された情報の中で本質に到達する飛躍の力だ。しかし論理と違って、その正当性を担保してくれるものが無い。直観はひときわ孤独だ。直観に基づく判断はこれとの戦いを意味する。つまり覚悟が必要である。

加えて、直観そのものの精度を上げるために何が必要か?常識である。

常識とは何か。おかしな物を見抜き、分別するための認識である。常識は論理ではなく、論理以前である。メタレベルの知識である。常識力がある人というのは、メタレベルの規範感覚を持つものを指す。一つの能力である。暗記してどうこうなるものではない。

この常識によって直観の精度が導き出される。

 

論理力は生きるために必須で、論理的な対応が取れないのは重大な欠陥である。

教育もまずは論理の習得を第一とするのは当然だ。ただその先の直観になると心許ない。直観は軽視されているような気がしてならない。

論理が通用するのは整備された状況でのみである。それ以外の状況を対処するためには、論理を超えなければならない。