茶会
就職して1年たったことだし、ということで今年度から茶道を再開した。
茶道具店の店主に先生を紹介してもらい、通うこと半年。今日は初めての茶会だった。
茶会といっても次々と湧いてくる大量の客を捌くような大寄せ茶会ではなく、先生に師事している別の門弟の方が自宅の茶室で有志を呼んで催したささやかなものだ。客は先生と小生を含めて弟子2人の計3人。近くの川を逆行するように車を走らせ、もはや山里、というところにお宅はあり、「こんにちはー」と簡単な挨拶を済ませそのまま席入り。
席中もところどころで先生の指導が入り、茶会なのか稽古なのか分からない様相を呈していて「こういうのもいいねえ」とのほほんとしていた所、さりげなく出された道具が正直場違いすぎるほど気合の入ったもので、唖然とするほか無かった。
正客「お棗の塗りは?」
亭主「8代目宗哲です」
客一同「( ゚д゚)ポカーン」
正直、事前に知ってたら取り回しで拝見などしなかった。
なにしろ、「あっ」「メキャ」ってなったら、一年近くタダ働き決定である。心臓に悪い。
属性なんて気にしなくていい-古橋秀之『ある日、爆弾が落ちてきて』
『涼宮ハルヒの憂鬱』と同じ2005年に出版された本である。
ライトノベルのキャラクター小説性を一気に決定づけたハルヒは、キャラの属性という物を非常に上手く活用して作品を作った。キャラが先か属性が先か。タグの集積体のようなキャラづくりを自覚的に成し遂げ成功させたハルヒは、その点において未完ながらも今のラノベの古典と呼んで遜色ない貢献をしている。が、その一方でハルヒの後続たちは、その方向性を強め、属性的なキャラがただ戯れるのみの作品を生み出しさえし、こうした作品に拒否反応を示す向きもある。
キャラ小説というものは基本的にシリーズもので、一話完結型の短編、これとはどうしても馴染めない。理由は簡単で、短いからだ。むやみやたらにペタペタ属性を貼りつけたところで短いからあまり活きない。むしろ紙面の余裕が徒に無くなるのみで、それよりも筋を優先させなければならない。もちろん人物を疎かにしてはいけない、バランスが肝心だ、という具合にラノベと言えど、ふつうに正攻法でいかなければならない。
その点標題の『ある日、爆弾が落ちて』はふつうの小説だ。小説としてのふつうの正攻法を成功させた作品で、ライトノベルと呼ぶのに相応しい衒いの無い軽さはむしろ小気味良く、それでいてしっかりと余韻を残してくれる。ツボを上手く押さえている。
かきかけ
幹事
よくやった。よくやった。よくやった。よくやった。
と思いたい今だけでも。今日は飲み会俺幹事。すみませーん。カシオレ2つに生4つ、黒霧ロックと水割りお願いします、あ、ついでに氷も持ってきちゃってください。熱燗熱燗、熱燗2合、お猪口はそう、じゃあ5、6個持ってきてくださいすいません。いったい何度目の幹事だろう。飲もう飲もう、飲まないとこれはきつい。ねー、すいません。来月も来るから、ちょっと大目に見て下さいよー。ね。いつも来てるじゃないですか、あ、ほんとですか?いやー、どうもですー。
梅原猛『百人一語』
神話を含め、日本の歴史上の人物百人が残したとされる一言を抜粋し、その人物を論じた本。一人あたり3ページほどの分量しかないがよくまとめられている。
目次を全部書こうかと思ったが、手元のに見つからないので、見つかったら書くことにする。
はっ
何かにつけ、「はっ」とすることが多い。
それが機転が利く系の素敵な「はっ」だったら良かったのだが、勘違いや、うっかりしていたことに気が付くことによる「はっ」である。小生はおっちょこちょいなのである。
例えば、TSUTAYAにDVDを返しに行くがてら昼飯を食べようと車を出し、店に到着しようという所で、「はっ、DVD忘れた」というような忘れ物系。聞き間違いや見間違いによる「はっ、なんだ勘違いだったか」というような勘違い系。双方ともによくある。
特にやっかいなのは後者の勘違い系。例え見間違いなどしても、すぐにおかしいなと思い、再確認して勘違いであったことに気が付くことができればまだ良いのだが、小生の場合は勘違いしたまま突っ走ることがしばしばある。
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しょーもなさの肯定――向田邦子『霊長類ヒト科動物図鑑』
身の回りの事だったり、ふと思うことだったり、幼少期のことだったり、妄想だったり、とにかく題材はなんでも良いので敷居が低い。そういうわけで、専業の人も本業の片手間にやる芸能人も含め、とかく世にエッセイストは多い。
ただ、なんでも書いて良いということは、どのように書いても良いということではなく、限られたごく少ない字数の中で最も効果的な文章にまとめ上げる為の技や規制は、ことエッセイにおいては数多い。
星の数ほどいるエッセイストの中でも取り分け名人技とさえ呼べるほど鮮やかな手腕で数多くのエッセイを残した人物に、向田邦子がいる。
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未練物語『華麗なるギャツビー』
それから6、7年ぐらいたっての映画版。
原作を読んだときは筋は特に気にせず、流れるような文章にうっとりしていた覚えがあるが、映像媒体で改めて見直してみると、ちっぽけで哀れな話である。
元カノを忘れられない成金男が、寄りを戻そうとあくせくと頑張って、いい感じな所まで行くんだけど、結果ボロが出てダメでしたという、つまるところこういう話。恋愛小説なんかではない。これは未練小説だ。であり、ストーカー小説でもある。
筋自体はいたってシンプルなこの物語のポイントはやはりギャツビーの人物造形にある。謎の多い人物などとよく言われるけど、基本的にギャツビーという人間のポイントは、
①裸一貫の状態から、己の才覚と努力で成功するというアメリカ的理想(self-made-man)
②不運な別れ方をしてしまった恋人への妄執
以上の2点のみであり、アメリカという国の普遍的な理想とひどく個人的な拘りがその一つの身体のうちに混淆している点が彼の面白さだ。
彼のあらゆる行動が元カノ奪還を達成するがための計画の一部であることが話を進めるにつれ分かっていく。元カノの家の対岸に屋敷を構えたのも、パーティを繰り広げるのも、元カノのいとこであるニック(語り手)に近づいたのも、全部。
そんな動機はバレバレなのに、それでもギャツビーによくしてやるニックはアメリカ文学きってのお人好しである。
そんなニックという人物も当初は①のアメリカ的理想を夢みてニューヨークにやって来る。しかし彼がそこで見たのは多くの成功者たちの虚栄的な生活であり、翻っては①の虚しさのみだった。
その中で、豪奢なパーティを連日繰り返し、①における最大の成功者かに見えた男が実は極めて個人的な感情に囚われていた面②を知り、そんな哀れな男にむしろ同情を覚え、心惹かれる。
しかしギャツビーがその念願を果たすことの出来ないままこの世から退出した後、ニックは田舎へ帰る。
The Grate Gatzby というタイトルに反して、ギャツビーその人はちっぽけで哀れな男だった。そして恐らく、その点を肯定するためにこそ、Grateという言葉が選ばれているのだろうと思った。
ディカプリオ主演のこの映画では、小説では掴み所のない印象の強いギャツビーを、よりはっきりと、人間らしく演じており、その分ギャツビーの哀れさを浮かび上がらせている。分かりやすくて良い演技だったと思える。
そろそろいい加減アカデミー賞あげてやれよと、つくづく思うのだった。